まだ生きてる

無職、一人暮らし、元オタク、精神障害手帳2級、荒れ果てた部屋を掃除しつつ、立て直していきたい。生活と記憶の日記。

生活能力が低いのもんだい

生きてます。

生活能力が低いなあ、としみじみ思います。

そうじがへただとか、家計簿がつけられないとか、料理が出来ないとかいう段階の、更に手前で、自 分で自分の面倒が見られない、自分の面倒を見るための最低限の発想がないんじゃないか。

と、自分のどうしようもなさをかみしめてます。

 

-直近で感じた生活能力の低さ

-1.コートの前をしめると寒さが和らぐことにふと気づく。
ふと気づく。ではないのではないか。皆あたりまえのようにコートの前をしめると寒さが和らぐことを知っているのではないか。私だって知識としてどこか頭に入っていたはずだ。というか、私はおたくなので描いたことすらあったような気がしなくもない(ないかもしれない)、「そんな恰好じゃ寒いだろう、とコートをかけてあげて、前のボタンも留めてあげる」というシチュエーションを。知識はあるはずなんだ。噛みあわないだけで。
どういうことだか我ながら分からないのですが、『コートの前をしめると寒さが和らぐ』ということに12月の後半ようやく気づいて、あまりにも寒いとコートの前をしめるようになりました。何年生きてるんでしょうね。今着てるコートジャケットはむかし友人に貰ったもので、何年も着てます。気づきがついてくるのが遅すぎる。

 

-2.仕舞えばいいのではないか、とふと気づく。
台所の隅に水彩絵の具の筆洗器と筆1本を置いている。
ワンルームの隅に、普段は履かない靴を入れた箱を4箱積んでいる。
机の上に本を積んでいるが、本の山の上に使ってない財布をちょん、と乗せている。

 

それぞれ、適切な処理をしたのちに仕舞えばいいのではないか、と、ふと気づく。
ふと気づく、ではないのではないか。皆、そうじをしていれば、収納について頭を巡らせる、というか台所に筆を置きっぱなしって雑ではなかろうか、深い意味もないのに。等と、思いながら、都度、筆洗器と筆は水洗いして拭い、押入れの画材入れ袋に(まだ捨てられない)、
履かない靴は、靴の汚れを軽くぬぐい取って陰干しして、箱の中のほこりをぱたぱたして、箱の中に入りっぱなしになってた緩衝材は汚れていたので捨てて、箱の側面に穴をあけ、靴を箱に戻し、押し入れに仕舞い、
机の上の本の山の上の財布はとくべつ汚れてもいないので、中身がすべて空なことを確認し(が、小銭入れのところに部屋のスペアキーが入っていたし、そのままキーを入れたまま)、『大事なものポーチ』に仕舞う。

2019年10月某日からずっとそうじをしてきていて、「そうだ、(使ってない)お財布はしまえばいいんだ」と気づいたのは、2019年12月21日、朝でした。靴や筆に気づいたのも12月に入ってから、
しかも(ふっ)と気づくし、なによりふっとが来るまでは解決策がどこにも無いような気がしてしまっている。

 


なんていうか、本当に、まだ生きてる、かろうじて、だなあっていう文だなと自分でも思います。
多少ADHDの気があるとか、うつ状態だからなんじゃないかとか、なくもないけどもそれ込みで自分な ので、だからが解決する問題ではなく。


昔、どうにもどんづまりになったら死ねばいいやと思ってましたが、死ぬなら室内で死にたい私にとって 、いざとなれば死ぬつもりというのは、結局ハードルが色々高すぎる。
そして、希死念慮がいつになくばかでかいのと同時に、死にたくないという気持ちがなぜかむくむくわ いていて、死ななきゃ・死にたい・死ぬしかない・死にたくない・まだ死にたくないがないまぜで、ただただ落ち着かないし苦しいしで、生きる方向に分岐器を切ることにしています。いま。