まだ生きてる

無職、一人暮らし、元オタク、精神障害手帳2級、荒れ果てた部屋を掃除しつつ、立て直していきたい。生活と記憶の日記。

本日もまだ無いのである。

何がといえば希死念慮が。

希死念慮どころか、道を歩いていてふとやってきて通り抜けていく、数秒あるいは数分の「あ、死にたい」がない。
「あ、死にたい」がなく、かといって、特に未来に希望は持ち合わせてはいない。
どこかで、屋外で、可能ならば損害賠償等が発生しないところで、あまり苦痛を伴わずくたばりたいなぁ、でも無理だろうなぁ、そんなうまい話はないだろう。とはぼんやり心のどこかに常にありながら、同時に、死なない限り生きねばならんなと思う。
「いざとなりゃ死ぬ」の難易度の高さは承知もしており、難易度の高さを乗り越えきれる胆力が私には無いのではないか? と、考えており、諦念といえば聞こえがいいのかもしれない心境で、落ち着いている。


希死が強いときは諦念なんてどこかに消え去って、もうダメだ、疲れた、ここまで生きてきたけど、もう無理だなぁ、限界だし、死ななきゃいけないし、死ぬしかないし、生きていたくない、生きるのが限界、希死念慮で死にそう、「もう無理なんだなぁ、疲れたなぁ」「生きていたくない」が一日中、数日に渡って続く。そのうち「こんなにもう無理なのに実行出来そうにないから希死のやり過ごし方を知りたい」と考え出す。「希死 やり過ごし方」とかで調べる。希死念慮が強くて、強い時にしななかった人が、希死念慮の時に死ななくてよかった、というようなことを書いているサイトやSNS(特定個人ではないです)を見つける。いや、「死ななくて良かった」? 死ねずに良かったってこと、ある? 生きたくないよ、やだよ、と眉根を寄せながら希死念慮のやり過ごし方を検索し続ける。思考に矛盾がある。どんな体験記を読んでも本を読んでも解決はしない。自分のことだからだ。過ぎ去るのを待つだけだ。というようなことを、思い出しながら書いてる。今のことではない。数ヵ月前。数週間前。11月の混合期。今はフラット。


状況が良くなってるとは言えないのにこんなに希死念慮が無くて大丈夫なんですかね。

「生きていたくない」「賃貸で死ぬと賠償金の請求が」「失敗しない方法で」が毎秒毎秒全身にのし掛かるタイプの希死念慮、「出来たら今この瞬間大きなハンマーで潰されたい、道端で」という願いが頭から消え去らないタイプ、「確実性の為に計画を練り続ける」タイプ、等々が特に法則性がなく重複したりしつつ定期的にやってくるのが私である。これが無い。

今、とにかく平坦なのだった。
生活リズムをキープし、洗濯物を取り込むことをサボらないように心がけたく、お布団を毎日あげて、日々そうじを怠らず、ただ、生活をしていきたい。
という目標が主となってる暮らしにおいて欲求もほとんど無い。一般的な生活必需品(カーテンとかレンジとか)を手に入れたいなぁいつか、と考えつつ頭のどこかで無くてもなんとかなるよなぁと考えてる。仕事にはつきたいがまず生活を整えて、段階を踏んだほうがいいだろうというのも察してきている。
欲や夢や希望が無いから嘆きもないのだろうか。


―お出かけと私。
このように社会の底におっても時おり、プライベートで人と接する機会がある。たとえば友だちと会う。昔の上司に声をかけて貰って出かける。

出かけて、人と会うと、気持ちが上がる。楽しい、と言ってもいいのかもしれない。楽しい? いや、楽しいのか? 気持ちは確かに、落ちてはいない、つまり、上がっていると言っていいはずだ。
その後、解散して家路につくと、ああ、疲れたなぁ、もう死にたいなぁ、とかなっちゃったりすることかある。

あるんだが、本日、出かけて、モーニングを食べて、映画を観て、お寿司を食べて、梅をみて、お詣りをして、歩きながらお話をして、(情けないことに交通費以外は、ご一緒してもらった、つまり昔の上司に出していただいた)帰宅。
「ああ死にたいなぁ、ここで死にたいなぁ」というのが、来ない。


帰宅して、朝洗濯して干していった洗濯物を取り込んで、畳んだり丸めたり(タオル)所定の位置に置いて、顔を洗って白湯を飲んでお薬を飲んで、明日読む本を決めている。

掃除機も隅から隅までかけた。
昔交流があったオタク友達に貰った、ちょっとかわいいクリアファイルを捨てた。4年くらい前のものかな。私がピクシブに上げたものをプリントして(本にしなかったやつである)、プリントに、ここがいい、ここがよかった、って赤いペンで感想を書き込んで貰って、プリントした紙と合わせて貰ったファイル。中身のプリントは既に去年捨てた。ファイル自体はきれいで、オタクグッズでもなく、就職したら使おうかなぁとか考えていたのだが、就職まで先が長そう過ぎて、捨てた。さらば。

軽躁なのかもしれない。
気をつけたい。