まだ生きてる

無職、一人暮らし、元オタク、精神障害手帳2級、荒れ果てた部屋を掃除しつつ、立て直していきたい。生活と記憶の日記。

眠剤と不眠と自分と戦う、間抜けなのだった。

問題は眠れないということなのだった。

眠れないのだった。20時頃に眠剤を飲んで、23時に消灯をして、以降いっこうに眠れないのだった。夜が明けて外の空気が変わってきている。カーテンの向こうが明るくまではいかずとも、真っ暗ではなくなってきた。時折気が遠くなったりもしたので、断続的に、短い睡眠はとれたのかもしれない。というのは気のせいで実は一睡も出来ていなかったかもしれない。スマホを見る。午前4時。目を瞑る。眠ろう、眠ろうと念じる。まるで眠れそうにはない。しかし意識が飛んだ。次に目を開けてスマホを見ると、午前6時半。喉が渇いている。すこし頭が痛い。眠いのだが、眠れそうにない。起き上がる。のそのそと朝のルーチンを済ませる。動きがはっきり鈍くなっていることが自分でもわかる。

 

けれども本日は「眠れない」理由がはっきりしている。はっきり自分のやらかしが原因だとわかっている。

 

早目に眠剤を飲んだ。そして横になった。

眠剤というのは、効きはじめふわふわとして、テンションが上がって、人と話せるような気になってしまい、私は昨夜、少しだけのつもりでSNSに顔を出してしまったのだった。布団の中でスマートフォンを操作する。20時から、1時間くらいふわふわとした中で、インターネットの空間で人と話したりしたのだった。

 

「ふわふわ」は1~2時間で消える。起きてしまっていれば、まして液晶画面を見ていたりなどすれば、人と話しなどしたら、目が冴えてしまう。

そして入眠のタイミングを逃した。明らかに私自身のやらかしなのだった。

「ふわふわ」は気持ちいい。気持ちいいふわふわに負けたらいけないのだった。

なんとかしたい。一昨日は「ふわふわ」した眠剤の気持ちよさすらなく、ただただ眠れなかったので、ちょっと寝られるタイミングだったはずなのだった。間抜けだったり、自分に甘いと、自分が辛くなるのだ。

 

 

本を読んでいる。

生活に関する本、レシピの本、実用書類を読んでいこう、と思っているのに、気がついたら、哲学や社会の本などを読んでいる。自分は満たされるが、まだ、だめだと思う。気を抜いてしまうと本の山に埋まる暮らしに戻ってしまう。現実を大事にしていくことを、忘れないようにしなければならないのだ。私は。

“しかしそれは、正業というのは大袈裟すぎる言葉にしても、本来ぼくが最も力を込めてすべきことではないとされていた。推奨される勉強の範囲に入っていなかった。ぼくだけでなく誰にとってもたぶんそうだったはずで、だから世間では「詩を作るより田を作れ」と言ったのだ。

 読むことだけでなく当然ながら書くことも、書物が今のように普及する以前ならば物語を聞くことや語ることも、正業ではなかっただろう。それはいわば昼の労働ではなく夜の余暇に属する営みであり、農閑期の楽しみであり、人生の余興でしかない、とぼくは教えられた。”

『雷神帳』池澤夏樹

 

私はいま自分にそう教えている、言い聞かせているような気がする。

アーレントソシュールヴェイユも今の私には必要がない。

むしろ、いつの私に必要なのだ? 必要になるのか。あるいはすがるように書物を抱えてしまえば、生きるのはいくぶんか、精神的には楽になるのかもしれない。ただもう元の、本と本の隙間に暮らす不自由な暮らしには戻りたくないのだ。私に必要なのは、効率のよい掃除のやり方や、家庭科で習うような家事、初歩的な自炊のやりかたを知れる・確認出来る本なのだ。

 

ほぼ毎日野菜を炒めて食べている。

何度か野菜を炒めているうちに、火加減にも塩コショウの量にも水の量にも慣れてきた。初めて(?)作った日よりずっとましな野菜炒めを食べている。

 

早く人間になりたいです。

眠剤に気持ちよくなってしまう自分を律することが本日の目標です。ハードルは低いと飛べたりするのである、と自分に言い聞かせている。

 

就労移行支援に行きました。

人と話すということに、なかなか慣れない。頭痛がするが、睡眠不足か緊張か、どちらが原因だろうか。希死念慮はまだ来ない。今日はお風呂に入る。