起きた瞬間にとほうもなく寝ていたい。
生きてます。
昨日、ものすごく早く眠剤を飲んで、寝た。
何度か夜中に目を覚まして、水を飲んだりトイレに行ったりしつつ、朝まで寝た。「まとまった眠り」という感じはないけれど、とても長く寝た。
朝6時台に、目を覚ます。まだぼんやりしている。目を瞑ると時々眠る。
7時過ぎ。本格的に目を覚ます。
本格的に目を覚ましつつ、思う。
「寝ていたい」
「一日中寝ていたい」
「何もしたくない」
「何かして、何になるだろう?」
そして、自分にとっての禁句、「生活リズムを整えて、仕事にまたつけて、生き始めて、一体その先に何があるんだろう? 楽しみも、何もないのに? いたずらに生きのびて一体何になるんだろう?」がはっきり言語となって頭のすみから、体の芯に向かっていく。
ああ。もう「何もしたくない」、と思う。
これは絶対にもう本当に無理なものだろう、この波に乗ってはいけない、と思い、とりあえず起きる。起きるそばから、「起きてどうする?」というのが体を重くする。欝々した気持ちより、体が重たい。希死が一切ないのに、ひたすら重い。私は時に、もっとどんよりと暗い気持ちになったり絶望したりする。暗い気持ちではない。過剰に死にたいわけでもない。ただ体が重い。体が重たいことを自覚し過ぎると暗示にかかってだめになる。だめになると理解しつつ、「何もしたくない」。
ここから生きて、何になる?
何のために生きる?
禁句だ。何にもならない。
何のためにも生きない。
私が生きねば悲しむだろうと考えていた肉親は既にこの世には存在しない。
のそりと掛け布団と毛布をまくりあげる。枕カバー代わりにしているタオルを手に取り、靴下と、下着と、2日間着ていたパーカーと、使った後に干していたバスタオル、と室内から洗濯すべしものを回収し、洗濯籠に放り込み、リビングの小さいごみ箱も片手に掴んで、台所に向かう。
小さいごみ箱の中身を、台所に置いてある大きなごみ箱に捨てる。お鍋に水を入れてお湯を沸かす。
顔を洗う。
フェイスタオルで顔を拭いて、顔を拭いた後に、フェイスタオル込みで洗濯籠の中身を全部洗濯機に放り込む。洗剤を入れ、『普通洗い』を押す。30数分で洗い終わる。玄関をちいさなほうきで掃く。
お湯が沸いていたので、インスタントスープを作る。
まくらを上げる。クッションに座って、スープを飲む。ふと窓を開ける。換気をする。寒い。スープがすぐに冷める。
布団を畳む。
洗濯が終わる。終わったので、干す。
ひと段落だ。あとは、何をしよう? と思う。軽く掃除機をかける。朝の動線、今朝の動きは悪くない、と思う。ルーチンの順番を見直そう、とメモ帳に動作の順番を書きだして、普段使っている日記の表紙に、マスキングテープを使って貼り付ける。
あとは何しよう? と思う。
エアコンを切る。
カバーを外し、フィルタに掃除機をかける。掃除機をかけた後に、フィルタを取り外す。フィルタはあまり汚れていない。表側から掃除機をかけて、水洗いの必要はなさそうだ、と思う。
カバーの内側にすこしほこりがついている。拭く。
それからフィルタを戻す。床に掃除機をかける。
あとは、何をしよう?
私は『気分と症状のグラフ』をつけている。取り出して、今日の日付の箇所は「ふさぎこんでいる」にマルをつける。「ふさぎこんでいる」だろうか?
現実を見つめているだけではないか? と考える。
生活支援センターに向かう。道に迷う。
就労移行支援を利用するために、受給者証を支給してもらうための、計画書のための、聞き取りと面談をする。「気軽に相談していい」と言って貰う。
「気軽に相談」何を相談したらいいのだろう。将来があってなきがごとしなことは、相談したところで変わりはしない。生きるの、もう、面倒なんだ、と相談されても困るだろう。
-読んだ本
『ムーミン谷へようこそ』冨原眞弓
ムーミンのキャラクタや物語について、訳者による細やかかつ淡々とした解説。ムーミンパパのエゴについての読解が、パパのいたたまれなさに直結している。
“慰められるときの喜びは、悲しみの大きさにきっちりと比例するから、まずもってできるだけ悲しみを膨らませなければならない。”(『ムーミン谷へようこそ』冨原眞弓)
備え付け家電の不具合について、管理会社に連絡を入れる。
起きているのがしんどい。眠りたい。眠りたいと思いながら、眠ってはだめになるので、今日することを考えるようにしている。
昨日、今日しようと思っていたこと
⦿洗濯
⦿エアコンのフィルタのそうじ
⦿備え付け家電等について管理会社に連絡
これらは終えた。もう、寝たい。
もう寝たいと思う、昼間の12時53分。