まだ生きてる

無職、一人暮らし、元オタク、精神障害手帳2級、荒れ果てた部屋を掃除しつつ、立て直していきたい。生活と記憶の日記。

トイレのそうじをしようという話。

トイレのそうじをしよう、と昨日思い立ちました。

本格的なやつをしばらくしていない。

本格的なトイレそうじって何だっけ?(そこから?)

 

先日友人のところに遊びに行ったとき、買い出しで友人が『ブルーレット置くだけ』を購入していた。私ははっとした。そういえばこういうアイテムもあったな。こういうアイテムもあった。私も使おうか? とか考えた。

(私の家のトイレ掃除道具はトイレマジックリン、トイレ用のほうき(髪の毛が落ちる)、除菌スプレー、トイレブラシ、以上です。しかもマジックリンが使い終わりそうである)

ただ、今まで賃貸で暮してきて十数年、確か、一度も、ブルーレット的なものを使ってない。

精神が壊れてなくて毎日そうじしていた頃もあった。あったが使っていないということは、つまり使わない理由がかつての私にあったのだろう、と考える。昔の私のことはだいたいすぐには思い出せない。

 

理由を思い出そう、ととりあえずネットで検索する。ブルーレット等を含める、『置き型洗浄剤』は賃貸の場合賛否両論っぽいのだった。さらに、タンクに沈める型は、つまりの原因になる、という意見もあるのだった。

ふと記憶がすこしだけ戻ってくる。かつての私は、「置き型洗浄剤を使うと色がつくから困るんだ。青いやつ。それより、マジックリンでごしごししたらいい」と考えていた……んだったような気がする。タンクの中のそうじは、稀に歯ブラシでしていた、ような気がする。タンクを久しぶりに開けてみても、汚れてはいるものの、ネットで検索したような年単位で放置したタンク状態ではない。ここ数年生きてるか死んでるか分からない暮らしをしていたため色々と記憶が曖昧なのだが、つまりここ数年のどこかでタンクのそうじをしたのだろうと思われる状態だった。

ふと、すこしだけ記憶よみがえる。

タンクの中がひどい時があって、ゴム手袋や歯ブラシかなにかと合わせてそうじしたことが、確かあった。映像として記憶の隅にあった。あれはいつだったか。まあ、近年なんだろう。

 

ネットで検索する。タンク用粉末洗剤を知る。なんだかよさそうだ。固形のものより、流し落とせそうだし。

と思って、近くのスーパー二軒と、ドラッグストアと、ホームセンターにタンク用粉末洗剤を探しに行く。どこにも売っていない。なんだ……?

 

 これが欲しい。amazonでしか売ってないとかいうのか? そんなことある……? とか思うので、今度また遠出するときにその地のドラッグストアとホームセンターに寄ろうと思う。無かったらamazonで買う。

とりあえずタンクの粉末洗剤は保留とする。

 

再びネットで『トイレ掃除』を検索する。トイレのそうじとしてベターなものは何だろう。

 

と、置き型洗浄剤とかふちの洗いかたとか床のふきかたとか基本を色々調べていると、ここは実は喫茶店で、近くから遠くから子どもの泣き声が聞こえてくる。絶え間ない。子どもの泣き声や、叫び声。親を呼ぶ声。このあたりはファミリーが多い。そして今日は休日だ。子どもの声が大きいのは仕方がない。仕方がないが、高音、絶え間ない声に意識が散漫にはなる。

 

トイレのそうじは毎日やるといい、というような記事を見る。

時間に余裕のある私である。それはそうだ、毎日やればいい。というか、本格的なやつに行く前段階をやっとこう。こういうのは一気にやるより徐々にがよろしかろう。

便器本体タンク→蓋→便器→便器の中→外側→壁→床を拭けばいい、という手順を確認する。このところは漫然と便器の中、便座、床、を気づいた時に拭いたりしてただけだったような気がする。順番を守ってそうじしよう。

 

置き型洗浄剤は必要なのかどうなのかもうちょっと考えよう。

子どもの声がする。子どもの声がすると、私の場合、いらっとはしないが、しかし集中が途切れるのだった。泣き叫ぶ子どもを親が放置しているわけじゃない。中々泣き止まないだけだ。たまに放置してる親もいるけど、かまってもかまっても無理なものは無理なことはあるだろう。

 

『トイレそうじ』『洗浄剤』『タンクの洗浄』『本格的なトイレそうじ』等を軽く調べただけで軽く疲弊して、情けないことだとは思う。疲弊した挙げ句に、最終的にこのあたりで一番価格が安いお店でトイレクリーナーシートとトイレマジックリンを購入する。基本に立ち返ってみる。

本格的なそうじ、とは? と思いつつ、ひとまず、今日、明日、明後日と普段より多めにごしごしとブラシをかけてみよう。

 

 

-毎日夢を見る。悪夢が多い。

夢の中で私は小学校高学年くらいだった。ふだん着に、胴のところだけ締め付ける帯のようなものを巻いていた。遠くに父と母ときょうだいが見える。彼らは私を留守番させて、私以外の家族全員分の喪服をオーダーメイドで仕立てたのだった。なぜか仕立てた喪服をそのまま着ていて、形がきれいな喪服は、手間をかけて設えられたものなのだな、と私は察する。私以外。私以外で全員で。声が出そうだ。「ん」だが、胴に巻かれている帯のせいで体が締め付けられて声が出ない。「んんーんんんーーー」と抗議する。帯がほどける。「どーーーして私だけーーーー私だけーーーー用意してもらえないのーーーー」声が実に被害者じみている。被害者意識で構成された小学生女子のどこか高い声。聞いていられない、と叫びながら思う。だが止まらない。「どうして私だけーー?」喚く。喪服の彼らは遠くにいる。喚く私を、何とも思ってないような、表情をしているだろうということが、遠くても分かる。

そんな夢を見ました。故人に、潜在意識で先を越された、というのでもあるのかもしれないですね。

 

-読んだ本

『「何もない部屋」で暮したい』ミニマルライフ研究会

幸福だ、と主張されると幸福に見えないという現象。

大きなテレビであったり、ソファであったり、立派な冷蔵庫であったり、電子レンジであったり、テーブルであったりなんだったり、私の家よりずっと「ちゃんともの」があるので、元々の経済力の差があるよなあと思う。つまり参考にならない。(参考になるかならないかで本を読むのはやめたい)。

 

-読んでる本

『日常学事始』萩原魚雷

にんげんいちねんせいにはなるほどなあということが多い。生活感にあふれたエッセイ。

“収入が少ない中、趣味を楽しもうとすれば、当然、衣食住が犠牲になる。人があまり読まない本を読み、(中略)身を捧げようとおもったら、快適な生活は諦めるしかない。”

数年前までの私はそのように暮らしていたように思う。(中途半端に残業代や手当が入るために、食や衣にも、実に中途半端にお金をかけていた。)そして仕事を辞めてから数か月前までは、“犠牲になった(衣食)住の上”を綱渡りしていた。生活に必要な家電や家具やそうじを後回しに、かつて好んでいた本の合間で呻いていたのだった。

ところで、この本に出てくるような、少なくなく存在した、本やCDやDVDの山の中で暮していた昔の若者たちは、今、どう暮らしているのだろう?

(私の知人たちは今も本の山に埋もれていきていたりする。幾分か本棚を新調したり、本を処分したりしながらも。それでも彼らは私よりずっと家具や家電を揃えていて、きちんと生活していて、しっかり生きているということに、ようやく最近気づいたのだが。世代的に、この作家はひと世代上だ。)変わらず暮らしているだろうか。

日常のこまごましたことについて、実際にどうしているかの工夫や考え方を、きっちりと手抜きの間のラインで書かれている。取り繕い感がないので、好ましい。あと、冬は三日くらい同じ服を来てるとかいうペースを保ちつつも、自炊はゲームのようだ、と、レベル上げしてるところが、すごく、いいな、と思う

ムーミン谷へようこそ』冨原眞弓

一回読んだがまた頭から読んでる。価値観も文体も、20年も前の本とは思えない。そうそう、スニフは、後半いつの間にか居なくなってしまっていたな。

 

-うだうだ言ってないでトイレをそうじしてきます。

朝晴れていたので布団を干したのだが、曇ってきたので2時間としないうちに取り込んでしまった。無念。洗濯も布団干しも、天気予報との戦いだ。

 

追記:

トイレそうじをしました。思ったより、蓋にほこりがかかってた。

終わりかけのトイレマジックリンを使い切って、今日購入した新しいトイレマジックリンの封を開けた。洗浄力が違う。

このあたりで一番安いトイレクリーナーシートは、なるほど安いだけあって、取り出した時点でぼろぼろと崩れたりした。ドライシートのように乾いていて、ドライシートよりずっともろい。30枚入り108円(税込み)、100均のほうがよかったんでない……? と思いつつ、使う。蓋を拭いては2枚使い切り、便器を拭いては2枚使い切り、タンクを拭いては3~4枚使い切る、という感じ。次は買わないな……なんだが、とりあえず使い切りたい。